つつのんの気まぐれ日記

アラカン女子の複雑怪奇な頭の中を書いていきます。

長寿社会に思う、早死には嫌だが100歳も嫌だ、寿命もホドホドが良い。

人生100年と言われているが、いったい誰がそんな世の中を望んだというのだろう。

 

ある調査によると、100歳まで生きたいか?の質問に80%近くがNOと答えているという。

私はこの調査を見て驚いた。え?じゃあ、逆に20%もの人が100歳まで生きていたいと思っているってこと?

 

少なくとも私の周りに100歳まで生きたいと思っている人はいない。早死にするのも嫌だが、必要以上に長生きするのも嫌だ。これが大方の意見だと思う。

 

 私はその100歳まで生きたいと答えた人に75歳になったとき、もう一度同じ質問をしてみたい。

 

「ほんとに、100歳まで生きたいか?」

 

たぶん、yesと答えた20%のうちの半分以上は「やっぱりほどほどでいいです」と答えるのではないかと思う。

 

75歳にもなれば、どんなに健康に自信がある人でも身体や記憶力など何らかの衰えを実感として感じるものである。

 

老いは決して他人事ではないのだ。誰もが老いぼれていくのだ。

 

そして・・・・・

  

 自分で稼げないもどかしさ、機敏に動けなくなくなるもどかしさ、人に挨拶されても相手の名前が浮かんでこないもどかしさ、耳が遠くなって人の話を聞こえたふりしてうなずくもどかしさ、目がショボショボになって目の前の石ころに転んでしまうもどかしさ。腰の痛みでモノにつかまらないと立ち上がれないもどかしさ。子供に車の免許を取り上げられるもどかしさ、長生きすればするほど、もっともっといろんなもどかしさを経験するだろうな。

 

その昔、長寿は喜びであったはずだ。だが今、純粋に喜びと言えるかどうか疑問だ。昔の100歳を超える長寿は希少価値があった。それは選ばれし者への人生の褒美だったのだ。金きん銀さんがあれほどもてはやされたのはそう言った時代背景があったからだ。

 

それが今じゃ100歳まで生きることも珍しくはなくなった。国が100歳になったお祝いに贈る銀杯が純銀から銀メッキに替わったのは、2016年からだ。各自治体でもお祝いにモノを贈る風習はいまだ残っているが、どこも簡素化の方へシフトしている。

 

そりゃそうだろうな、今のところ、すぐに取りやめともいかないだろう。このままいくと100歳越えは今後ますます増えるのだから、一気に財政を圧迫するのは目に見えている。

 

さっさとそんな時代に合わぬ贈り物などやめた方がいい。しかも銀メッキなんかもらってどうする?私なら、まだ食べられる紅白饅頭の方がうれしい。その前に100歳表彰なんぞ受けたくもない。

 

うちの母の寿命は100歳には遠く及ばなかった。あまりに急な別れで、悲しみも倍増したが、大概において人の死とは突然やってくるのだろう。

 

母は独身の兄と同居していたが、おフロに入っている時に亡くなった。溺死だ。85歳だった。もちろん溺れる前に意識障害などの突発的なことが起きているはずなのだが、結局はなぜ溺死したのかは分からずじまいだ。解剖をしますか?と聞かれたが、すでに亡くなっている親の身体を切り刻むのは、気が進まなかった。

 

警察が入り、様々な角度から子供である兄、姉、そして私、3人別々に事情徴収がなされた。さりげなく、母がおフロに入っていた時間の前後の行動を聞かれた。これってアリバイってやつだったのだろうか?まさか疑われたわけではないよな、ただ警察は形式に従ったのだろう。

 

財産家ならともかく、あっさりと事件性は否定され、事故と判断された。おフロの窓からの侵入はなかったとの話だった。

 

母には、趣味と言えるものがなかった。本を読むでもなく、好きなTVドラマもなかった。それでもまだ、母が元気な頃は、温泉や花見や買い物に連れ出したものだが、80歳を超えたころから膝の痛みが悪化し認知症も始まった。

 

亡くなる2年前ぐらいになると、ほとんど歩けなくなり、一日中TVの前に座って何か食べている状態であった。TVは兄が音がある方がいいと、仕事に行く前につけてるだけで母がチャンネルを変えることもなかった。もともと、あまりTVを見ない人だったからね。これが毎日続いた。

 

私が実家に帰ると、母はいつも聞いた。

「アータ、いつ来た?」

「うん、今」

「どこから来たと?」(知ってるだろ)

「〇〇から、車で来た」と私が住んでる町名を出すと、

「へーそんな遠くから来たと?遠かったろ?」(何度もうちに来たことあるだろ)

別に遠くはない、車で2時間半だ。まるで宇宙からでも来たような驚きようだ。

家に閉じこもっている母にしてみれば、私が住んでる町はさぞ遠いんだろうな。

 

姉も私もできるだけ母の様子を見に行っていたが、十分なことは何一つできていなかった。ヘルパーさんに来てもらったり、デイサービスを利用すればちょっとは違ったかもしれないが兄が頑として受け入れず叶わなかった。ちょっとそれには事情があった。それについては、長くなるので省く。

 

床にはミンチボールが転がっていることもあれば、魚の缶詰め、コンビニのお総菜などの食べこぼしがよく落ちていた。仕事に行っている兄が母のお昼ご飯に用意したものだ、と言ってもただ店から買ってきたもの。

 

兄の介護の大変さは分かっていた。

 

テーブルの上にはいくつものパンが袋から出たまま、硬くなっている。しかもお茶もこぼれしずくが床に滴り落ちている。

さっと食べこぼしをティッシュで拾い上げ、ごみ箱に捨てる。

ほっといたら、母が拾って食べるだろう。テーブルをキレイにし、家で作ってきた母の好物のうなぎやちらし寿司や煮物などを食べさせる。黙々と食べる母。

 

「おいしい?」と聞く私にちょっと顔をしかめ首をかしげる母。解けないテストをやらされた時、人はこんな顔をするのかもしれない。

レトルトのミンチボールも奮発して買ったウナギも欲というものを失った母には区別がつかない。たぶんは母は認知症というより、考えることを放棄していたのだろう。

 

別に、母は兄との暮らしに絶望していたわけではない。母は兄が一番大好きだったのだから。むしろ、動けなくなって兄に何もしてやれなくなったことが生きる気力を失わせたのかもしれないな。膝が痛くなる前までは、兄のご飯作ったり、洗濯したり甲斐甲斐しく世話をしてたからな。

 

人間て、誰かのために何かができるって生きる希望になるのかもしれない。

 

「なんか食べたい物ある?」

首が左右に動く

「どっか行きたいとこある?」

首が左右に動く

「何かほしいものある?」

首が左右に動く

「誰か会いたい人いる?」

首が左右に動く

首を動かすその顔は無表情だ。

だが、母は私が自分の娘だということはちゃんとわかっていたし、私の名前も忘れることはなかった。話もちゃんと通じた。ただ、話したことを覚えていないのだ。興味がなかったのだ。私にも、世の中にも、自分自身にも。

 

ちょっとの間、母のそばを離れ、また戻ってくると母はまた同じことを聞いた。

「アータ、いつ来た?」

「うん、ちょっと前」

「どこから来たと?」

「〇〇から、車で来た」

「へーそんな遠くから来たと?遠かったろ?」

「うん」

私が実家に帰ると一日に何度も繰り返す会話だった。

 

人間の会話って、記憶があって成立するもんなんだなとつくづく思う。記憶がないと会話はエンドレスになる。

 

母の認知症は、ひどいものではなかったが考えたり思い出したりするのが億劫なようだった。

 

あの頃、母はホントに「生きていた」と言えるのだろうか。

 

もともと人間は100年設計ではつくられていないのかもしれないな。

 

だから今世の中の老人たちには、身体と頭は動かなくとも、ベッドの上で生きながらえるチグハグな現象が起きている。今の医療は死なせない医療だ。終末期医療は延命にこだわってるからな。

 

日本人の平均寿命が男女ともに50歳を超えたのは、1947年のことだ。それが今では、男性81.25、女性87.32まで延びた。これが100年になると言われているが、それっていいことなの?それって幸せなことなの?

 

老人福祉法が制定された昭和38年には100歳を超える老人は、全国で153人だった。それが現在、7万人近くいる。そのうちの88%が女性だ。

 

なんだか、一歩間違えば自分も100歳まで生きてしまうのではないか?

 

そんな気になるほど寿命は着々と延びている。

 

わずかな年金で暮らす老後って、延命したいほど楽しいものだろうか。延命したら子供は喜んでくれるのだろうか?私は自信がない。存在するだけで愛しがられるのは、赤ちゃんとペットぐらいのものだろう。

 

そりゃあ、認知症の画期的な治療法が見つかり、年金ザクザクくれるっていうなら100歳まで生きるのも考えてもいい。でも、それ無理だろ?

 

何事も過ぎたるは及ばざるがごとしだ。

 

私も早死には嫌だが100歳も嫌だ。やっぱり寿命もホドホドが良いな。