つつのんの気まぐれ日記

アラカン女子の複雑怪奇な頭の中を書いていきます。

コロナ感染は怖い!心配性のお客様と話して今ホントに恐れるべきことについて考えた

 

今日、あるお客様からコロナに関する問い合わせの電話を受けた。

 

その内容とは・・・・・・

 

営業マンが1週間ほど前そのお客様を訪ねた時咳をしていたというのだ。話した時間は20分ほど。お互いマスクを着用しており、大した咳ではなかったらしいが、気になって仕方がないと。「もしかしたら自分も・・・」と思うと、とても怖いのだと。

 

「そちらの会社で、感染者出ていませんか?」

 

営業課は同じ建物内ではあるが階が別である。いくら何でも営業課に感染者が出れば、お客様相談を一手に引き受けている私達サービス課には真っ先に伝えられるだろう。

そう信じて、感染者は今のところ1人も出ていないことを伝えた。

 

まさか、営業課が隠すなんてことないよな。

 

念のため、お客様の住所と名前を聞いた。住所で担当の営業マンが分かるためだ。そのお客様宅へ誰が訪問したかも分かる。いざという時はもしかしたら連絡が必要になるかもしれない。いやいや、ないだろうと思うが。

 

でもそのお客様は住所どころか名前も教えてはくれなかった。それなのに、保育園に預けている子供が3人おり、自分がもし感染すれば家庭は立ち行かなくなると訴えた。

 

「大丈夫ですよね、ほんとに大丈夫ですよね」

 

すがるようにお客様は私に聞いた。きっぱり大丈夫だと言って欲しいのだろう。

 

きっぱりとは言えない。ないと思うが、万が一ということもある。だから、住所と名前を聞いているのだ。

 

お客様と営業マンが話したのは1週間前である。

 

WHO見解では、コロナの潜伏期間は1~14日で平均5日である。一週間前だとすると、平均は確かにクリアしているが最高14日となると、あと1週間もある。

 

私は、お客様の訴えに「そう・・・ですね・・・・?」と、イエスともノーとも、どちらともいえないようなちぐはぐな発音で返事をした。

 

お客様が私の言葉をどう受け取ったのか?「そうですよね、一週間たってるのだから大丈夫ですよね、いえいえ、大丈夫です、すいませんでした」と、自分で自分に言い聞かせるように電話を切った。

 

人は言葉を自分の都合のいいように解釈するものだ。

 

私は着信の表示された電話番号を記録表に書きとどめた。後でわかったことであるが、近くの席の同僚が3日前に同じ内容の問い合わせをお客様から受けていた。私が書いた記録表と彼女の3日前の記録表の電話番号が一致していた。

たまたま、その同僚が私の電話のやり取りを聞いており、話の内容があまりに似ているので記録表を確かめた結果、同じ人物だというのが分かった。もしかしたらこのお客様は2度ではなく何度もかけてきているのかもしれない。電話を受けるのは多数いるのだから、他の者が同じ電話を受けた可能性は否定できない。

 

お客様が電話をかけてきた原因は営業マンが咳をしていた。ただそれだけのことである。ただそれだけと書いてしまうと怒り出す人もいるかもしれないが、本当の原因はその人が持つコロナ感染者に対する恐怖心なんだと思う。

 

この恐怖心の度合いは人によって違う。

 

恐怖心の度合いが弱い人なら、ちょっとは気になるかもしれないが、電話まではかけてこないだろう。その証拠に、最初にその電話を受けた同僚は、「たかが、ちょっと咳してただけでしょ、マスクしてんだから大丈夫に決まってるじゃん、気にしすぎよ」とゲラゲラ笑っていた。マスクから飛沫が漏れてくるような豪快さだ。こんな人もいる。

 

私はお客様のやり取りの後、ふとある思いがよぎった。昔読んだある本に書いてあったたとえ話である。本のタイトルも覚えていないし、内容も正確ではないかもしれないが、主旨は伝えられると思う。確かこんな内容だった。

 

ある小さな国に戦争が起こった。その国では、25000人の死者が出た。

 

あまりの無残さに若者が、神様にこう言った。

 

「あなたはなぜ、このようなむごいことをなさるのですか?私は親も兄弟も友人さえも失いました。なぜ25000人もの命を奪ったのですか?」

 

神様は答えた。

 

「戦争で死んだのは、5000人だ。後の者達は恐怖で死んだのだよ」

 

このたとえ話は、恐怖で人が死ぬということを言っているのではない。そんなことはありえない。

 

私たちはニュース番組を見ては思う。

 

どこかで地震が起これば、うちも地震が見舞われたらどうしようと不安になるし、よその子供がいじめで自殺したと聞けば、うちの子は大丈夫だろうかと心配になるし、リストラや相次ぐ倒産が起これば、自分もいつかターゲットになるかもと暗澹たる気持ちにもなるだろう。

 

これが、まだ対策を立てられる余力があるときはいい。

 

地震が起こったときのために、防災グッズを備える。子供の自殺が心配ならもっと親子のコミニケーションを増やす。リストラ倒産に備えて当面の生活資金は預金しておくなど。やることはいくらでも思いつくだろう。

 

私たちはどちらかというと不幸な話の方に反応しやすい。その証拠に友人が宝くじで大当たりした話より、離婚した話の方が興味がそそられるだろ?

 

トイレットペーパー事件もいい例だ。手に入らなくなると聞いてあなたもドラッグストアーに買いに走らなかったか?SNSにあげられた一つのウソ情報が、勝手に独り歩きして人を扇動する。

 

そんなことが起こるのは普通の生活ができなくなるという恐れからだ。

 

かと言ってそんなに恐れは悪者か?

 

NOだと思う。どんなものにもコインと同じように二つの面がある。

 

恐れとは人類が生き伸びるための知恵だとも言える。但しそれには条件がある。

 

「適度な恐れ」だ。

 

火に対する恐れがなければ、やけどをする可能性は高くなる。水に対する恐れがなければ、夏の海水浴は救助隊をもっと増やさなければいけなくなるだろう。

 

だが、適度な恐れが度を超した恐れに変わると厄介だ。私たちは無力化する。飢えたライオンの前で呆然と立ち尽くし、あっさりと餌となるのだ。

 

先ほどの神様の言葉を思い出していただきたい。どうせ覚えてないだろうから書いておく。

 

「戦争で死んだのは、5000人だ。後の者達は恐怖で死んだのだよ」

 

このたとえ話で神様は恐怖に支配されてしまうことが最も恐ろしいことなのだということを教えているのである。

 

今回のコロナも然りである。

 

誰だってコロナは怖い。ウイルスが見えないからなおさらだ。

 

手洗い

マスク

人との接触をできるだけ避ける

正しい情報の共有

 

今こそ、私たちは一人一人ができることをちゃんとやって立ち向かうのだ。

 

そう!多くの人が恐怖に支配される前に!